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【大桑にある地域名と由来の紹介】

 

★市洞・いちぼら

 

市洞は「六谷」多くの谷・洞があることから昔は栢野から市場にかけての広い地域をこう呼んでいました。
「洞」とは山の間に細くくぼんだ所と言う意味があり、この辺の洞には「一の洞」「二の洞「三の洞」などの名前が付いていたようです。
ここが「一の洞」と呼ばれていた事から「市洞」と付けられたと言われています。

 

★栢野・かやの

 

栢野は大桑の東の方にあり、広い洞になっています。
昔は『萱野』と書いたそうですが『萱』も『栢』もどちらも『かや』と読みます。
かやはススキの仲間でその昔は広々とした野原にススキが見わたすかぎり生えており、そこからこの名前がついたと言われています。
栢野は土岐氏の時代には戦場となり、ここでたくさんの兵隊が戦いました。
何度も戦場となっているので、農民たちはまた荒らされるだけと考え、そのころは畑を作っていなかったと考えられています。
『六萬墓』や『千人塚』など戦いがあったことを裏付ける史跡もあり土岐氏が斎藤道三にほろぼされてからは、また静かな暮らしが戻ってきて、栢野で畑を耕せるようになってきたということです。
栢野古墳も有名ですがその古墳の南側に、2014年にこの地に新たな名所としてインディアンビレッジが開村致しました。

 

★六反・ろくたん

 

栢野から市場にかけて山際に多くの谷や洞がある地域は「六谷」と呼ばれていました。

この六という数字は「六つ」というより「数多く」という意味を表していると言われます。

戦国時代には大桑城の麓にあり堀に守られた武家屋敷などが並んでいたようです。

ろくたにがなまって「ろくたん」と呼ばれるようになり「六反」という字があてられました。

 

★市場・いちば

美濃国守護大名土岐頼芸が大桑に移った後、商人や職人を集め、城下町を作りました。そこで市場が開かれたことから、「市場」の地名がつきました。
大桑の市場は、紙や薪炭をあつかうところとしてにぎわいました。
その時代は、足もとの悪い水田地帯を通るより、足場のしっかりした山ぎわを通ることが多かったので、美山への行き来も今のように椎倉ではなく、大桑を通っていました。美山の岩佐の坂道を通り、紙すきや農作業の日雇いに行ったと言われています。
頼芸を倒した斎藤道三は、油商人をしていて、油を売るついでにこの大桑城の様子を調べに来たとも言われています。

その道三が戦いの後、井ノ口の町(岐阜市)作りを始めた時、大桑の商人・職人を井ノ口につれていきましたそれが、岐阜市金華山のふもとの百曲がり通りです。今でも、上大久和町、中大桑町という地名が残り、金華小学校(以前の下大桑町)へ続く道筋になっています。また、市場にある般若寺の前あたりを「伊奈波」(又は、稲葉、稲藁)と言っていたそうです。

そして、ここにまつってあった神社を伊奈波神社といい、商人の移動と共に、岐阜市に移し、現在の伊奈波神社となっているということです。このように、お手本になるほど大桑の町作りは素晴らしかったのです。

 

★高札・こうさつ

 

『高札』とは、幕府からの命令や通達のことです。
昔は板でできた札に連絡したいことを書いて立てておきました。これを高札と言います。この高札が建てられたということが、地名の由来であると考えられています。
高札地区は、ほぼ大桑の中心であり、高札を立てるのにはちょうどよい場所だったのではないかと考えられています。その中でも人が良く通る四ツ辻に立てました。
高札として出されたものは、「キリシタンをとりしまる。」というものや「村を離れてよそへ行くことを許さない。」という内容のものなど、幕府から農民への命令がほとんどでした。

 

★斧田・おのだ


大桑地区には、今も製材所があります。
この地区は、周りが山で囲まれていることから、山の木を切って生活を支えている人が多かったことの名残でもあります。
斧田のあるお年寄りの話によると「斧田」という地名は、木を切る仕事になくてはならない斧を使う人が多くいたから、「斧」を使い、川に沿って田も広がっていたことから、「田」の字をつけて、「斧田」の地名が付いたと言われているということです。
また、「斧田」は昔は「小野田」と書いていたという説もあります。

山が多くて、平地が少ないためなかなか広い田を作ることができず、そのため段々畑のように小さい田がいくつも作られていたから「小さい野原の田」ということで「小野田」という名がついたということです。

後になって、漢字3文字で表すより、2文字の「斧田」の方が書きやすい、ということになって、今のように書いているのではないか、ということです。
いずれにしても、土地の様子である山や田の広がりから、地名が付いたであろうと、想像できます。

 

 

★雉洞きじぼら

「きじぼら」というくらいで、このあたりにキジが多くいたようです。
また、洞というのは、谷のような形になって、それ以上先に行けないようなところという意味です。
そういう地形の所は、よく○○洞という名前が付いています。
しかし、きじが多い洞だから「きじぼら」になったかどうかは、はっきりしていません。
また、ある書物によれば木地師(うるしをぬる人)が住み着いていたという説もあり、山が多いのでうるしの木も多くあったのでしょう。
そこで、うつわなどにうるしをぬる職人がこの土地に住み着いていたことから、木地師が多くいる洞、つまり「きじぼら」になったとも言われています。

【その他大桑城に由来する地名

★いなば

 

般若寺の前のあたり。城下町として栄えていた頃の神社としてここにお宮がありました。「伊奈波、稲葉、稲藁」などの文字が伝わっています。現在の岐阜市の「伊奈波」の元はここから始まっていて、ここにあった神社を移動したのが岐阜の「伊奈波神社」であるといわれています。

★茶屋
 

南泉寺の南、川を越えたあたりを「茶屋」といっています。ここに土岐家の従者の支度部屋があり、茶店が並んでいたのでこの名が残っています。

★狼煙場(のろしば)

 

十五社神社から市洞に抜けていく山道の中間に峠があり、ここで「のろし」を挙げて大桑城への通信の役目を果たしていたといわれています。

★椿野

 

現在の福祉施設「三幸園」「椿野荘」「あしたの家」のある洞のあたり。大桑の中で最も広い洞で、武家屋敷・馬屋・倉・馬場がありました。

★早矢仕

 

この地区には、弓矢に使用するよい竹が生育していたので、「取矢」または「早矢仕」といわれた。別の説に、土岐頼芸が山狩りのときに、飛び出したいのししを一矢で射止めた名人の武士がいた。その武士に「早矢仕」の姓と屋敷を与えた。その屋敷跡を「早矢仕」といっている、とも言われています。
(「高富町 郷土の記録より」)
 

 

★まだほかにもさまざまな名称が残っています。



 

 

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