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大桑の歴史

①古城山にある大桑城

②南泉寺(土岐頼純墓所)

③六万墓

④千人塚

⑤四国掘・越前堀

⑥金鶏の滝

⑦取矢神社

⑧般若寺地蔵尊の大石

⑨水尾の薬師堂

⑩十五社神社と逸見杉

⑪あに坂の三十三観音

⑫四国八十八ヶ所霊場

⑬加藤長七翁碑

⑭雉洞の子安地蔵

⑮その他

大桑に残る史跡紹介
古城山の大桑城(ミニチュア城)

古城山の大桑城(ミニチュア城)

古城山(「しろやま)」とも言われています。)には、昔、大桑城というお城があり、 今でもその時代のものがたくさん残っています。 大桑城は山の上にあったので、なかなかせめにくいお城でした。 山を登っていくと今も残る関所や堀のあとから、城を守るための工夫が見られます。 この大桑城には、土岐氏という一族が住んでおり、ここで美濃の国(岐阜県の南の方)) を治めていました。つまり、大桑は美濃の国の政治の中心であり、土岐氏は、 今で言えば県知事や県警本部長のような役目をしている人だったのです。 この大桑城は、守りをかたくするために山や川の多い場所を選んで建てられたのです。 土岐氏が大桑に住む前には、逸見氏や大桑氏という武士もいたそうで、そのころからすでに お城のような館が大桑にあったようです。 その後土岐氏9代目、土岐正房の弟である定頼が大桑城をつくり直したと言われ、その城の周りには城館ができ、にぎわっていたそうです。 このようなお城があった古城山は大桑の人にとって、地域の自然としてだけではなく歴史を伝える 証人としても大切にされています。

南泉寺

南泉寺

南泉寺の始まりは、永正4年(1507年)に建立されたと伝わっています。 当初は、恵解(えげ)寺といっていたが、美濃の国十代守護職土岐頼純が南泉寺と改称し、 天分16年(1547年)に土岐家の旧館に寺を移しました。 初代の仁岫和尚の後を継いだ名僧「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」の遺言を残した 快川和尚もここに居て法門を説いていました。 名僧、「快川和尚・大愚和尚の肖像画」「土岐頼純の肖像画」「土岐頼芸が描いた鷹の絵」など、 このころの歴史や文化を知る貴重な手掛かりとして、指定文化財にされて保存されています。 寺の裏にある墓地の奥には、土岐頼純の墓があります。頼純は天文11年(1542年) からの国盗りの戦いで、斉藤道三に攻められて、この大桑で天文16年に討ち死にを しました。それを仁岫和尚がここに葬った、と伝わっています。

六万墓

六万墓

六萬墓は栢野地区の山裾に建っています。 天文11年(1542年)、大桑城が斎藤道三に攻められ、栢野・六反・椿野のほとんどが激しい 戦いの場所となり、多くの死者が出ました。 翌年、その戦死者の骨を集めてここに埋めたと言われています。 6万という数字は実際の数ではなく、たくさんであったことからつけられているようです。 後世の人に戦いのすごさを伝えようと墓石は南泉寺の仁岫和尚が建てました。 六万億土の彼岸(天国)にいけるようにと願って建てたとも言われています。 近くの十稲架という地名は、この戦いに勝った斉藤道三が、敗れた土岐頼芸方兵士の首を、 稲をかけるために作った十段の「ハサ」というのにくくりつけて、さらし首にしたことから つけられています。 この碑の両側に建っている五輪塔は、「美濃型五輪塔」とよばれ、かわら石の自然の形を 残していることから、貴重なものとなっています。

千人塚

千人塚

千人塚は、六万墓の東にあります。 寛政3年(1791年)、村人が集まり、天分11年の戦いで多くの人が亡くなってから 250年経ったことをまつり、安らかに眠るように祈った記念の碑です。

四国掘

四国掘

四国掘り・越前掘は栢野地区にあり、天文14年(1544年)、大桑城にいた美濃の国守護 土岐頼芸の軍と岐阜の斉藤道三の軍との戦いの時、頼芸に力をかした国の武士たちが大桑城に つながるたった1本の道路であり、両側から山がせり出しているこの場所に壕をほって、 敵の侵入をふせぎ深さは5m、幅は約8mもあります。 道路の右側(西)を越前(福井県・富山県)の朝倉勢が、大手門を強くして守れるように するために作ったことから「越前掘」といわれています。 道路の左側(東)は朝倉勢のほか、美濃(岐阜県南部)・尾張(愛知県西部)・伊勢(三重県) などの四つの国の兵士が掘ったので「四国掘」といわれます。 地元の人たちは、四国堀のことを越前堀とよんでいたそうですが、調査が進むにつれて、 別々のものであることがわかってきました。

金鶏の滝

金鶏の滝

この滝は、金鶏山麓のと取矢神社の近くにあります。滝の落差は整備した 当時は21メートルもあってすばらしいながめだったそうです。 ある古老のお話によると、滝のもとにはゆかたを売る店や茶店などができ、 たいそうなにぎわいであったそうです。 その後、水路が土砂などにうまってしまうなどして、水量が少なくなってしまったため、 地元の商工会が中心となって、昭和32年にもう一度改修作業が行われたそうです。 地元の人々は今でもこの滝を大切にされ、滝の横には、不動明王をおまつりし、取矢神社と 同じ時期に一緒にお祭りをしています。

取矢神社

取矢神社

大桑市洞の北端の山の麓、金鶏の滝のすぐ近くに取矢神社があります。 雨乞い祭りの中心となる神社ですが、この神社には弓矢に関するこんないわれがあるそうです。 昔、土岐頼芸の家来で弓矢の名人だった早矢仕新助という人が、ある日、森を散策して いるときに、見たこともない鳥がいたのでつかまえようと矢を放ちました。 するとその鳥は矢をくちばしで受け取りそのまま飛び去ってしまいました。 新助は、この鳥は神の使いにちがいないと驚きました。そして古いお宮を新しく 立て直し、取矢神社と名付けてお参り続け大切にしたということです。

般若寺

般若寺

市場の般若寺には地蔵尊の掘られた大石が安置されていてこの大石は、もとは今の 禁坂(金坂)にあり、天文年間の(1532年)頃、大桑城主、土岐美濃守源頼芸公の 麾下の刑場石としてつかわれていたものです。天文2年に頼藝の宝器を掠め取った盗賊を 処刑した後、その悪霊が石に入り込み、頼芸公に災いしたともつたえられています。 大石は江戸時代のはじめには、曇った夜吠える(夜鳴き)石となり、禁坂を通る村人を こわがらせていました。時の般若寺の住職であった旭桑和尚さんがその済度を思案され、 和尚さんは石工に申しつけて地蔵尊像を彫刻し、小堂に安置され、六道の出離を永く供養 することで霊魂は救われ、その後、声は次第に消えていったと言われています。 この地蔵尊は、お参りすると盗人を遠ざけ、悪魂を即おとしてくださる延命地蔵菩薩さまです。

十五社神社

十五社神社

今から約千年前、この地域に自然災害があり、人々は神様に守ってもらおうと天神大明神をまつりました。 その後、土岐氏という武士がこの大桑を治めるようになり、神社をつくり直して名前を 「十五社神社」としたと言われています。 また、この神社には大きな杉の木があり土岐氏が大桑に来る前に、逸見氏という武士が 手がらをたてたほうびとして大桑の土地を守る神社に3本の杉を植えたそうです。 その中の大きな1本杉を、植えた人の名をとって「逸見杉」というようになりました。 大桑には、取矢神社や神明神社や天之常立尊から神日本磐余彦尊(初代天皇)までの神々13代、15代天皇を合わせて15座(20柱)が祀られているので、十五社神社といわれます。

あに坂の三十三観音

あに坂の三十三観音

雉洞には伊自良に通じる坂があります。この坂を大桑の人たちは「あに坂」と呼び、伊自良村の人は上願地区に続いていたので「上願坂」とよんだそうで、今でも二通りのよび名がありこの坂は、大桑と伊自良を結ぶ道として昔から多くの人が利用してきました。とくに大桑と伊自良はとなり同士の村だけに道を通していろいろつながりがありこの坂は昔はとても曲がりくねった山道だったので、安全をいのって大桑や桜尾の人たちが約20メートルおきに坂道の下の方から順番に三十三の観音像を置いていったそうで今は、三十三の観音像のほかにも不動明王像、弘法大師像などもあるので、実際には全部で三十八体の像が置いてあります。

四国山八十八ヶ所霊場

四国山八十八ヶ所霊場

栗まつりなど、山県市のイベント会場として使われる四国山公園の西側の山に、 「四国八十八ヶ所ミニ霊場」が作られています。 百メートルほどの高さの山を登り始めると、石仏に出会います。つづらおりの山道を 一巡りすると、四国八十八ヶ所をお参りしたことと同じことになるように、そんな願いを こめられて作られています。

雉洞の子安地蔵

雉洞の子安地蔵

穴洞と宮洞の合流するところに子安地蔵と呼ばれるお地蔵様がまつられていて毎年8月24日にはこのお地蔵様のお祭りがあり、この地蔵様は、130年ほど前、滋賀県から来ていた六部(お寺めぐりしながら修行する人)が修業が終わり国へ帰る前に、お経を埋めて、お礼にとお地蔵様を彫り、そこに立てたのが始まりだそうで、その後、近くの子どもたちがこの地蔵様のそばで遊ぶようになり、それを見たおばさんたちが団子を作って配ってやろうということになり、このお祭りが始まったということです。

栢野にある道祖神

栢野にある道祖神

道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏だそうです。

わがふるさと大桑には数多くの史跡が残っております。

史跡めぐりをしながら、歴史を感じてください!

何か新しい発見があるかも知れません・・・

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