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大桑に伝わる話

 

 

【餅屋のおばあさん】

戦国の時代、大桑城の裏手にあたる所に青波という村があり、そこに餅を商売にしているおばあさんがいました。おばあさんは、おいしい餅を作るために毎日餅をこねたり丸めたりして一生懸命働いていました。
そんな中、武士の間では、土岐氏と斎藤氏の争いがますます激しくなってきましたが、土岐氏の居城である大桑城は守りが固く、斎藤氏はなかなか攻めきれませんでした。というのも、大桑城のある城山は、急斜面で険しい上に大群が一気に攻められるような道もなかったからです。がけを伝って何とか登っても、上から打たれる矢に当たって城にたどり着けるものはいませんでした。
困り果てた斎藤氏側の侍たちは、大桑城の 近くに住む餅屋のおばあさんなら城へたどり着くぬけ道を知っているのではないかと考え、おばあさんの家へそのぬけ道を教えてくれるように頼みに行きました。
おばあさんは、初めのうちは、
「そんなぬけ道など知らん。」
と相手にしていませんでしたが、侍のおどしや早く戦が終わってほしいという気持ちなどから、
「じつはな、ぬけ道は知らんが、城を落とす方法ならあるぞ。」
「火道を作ればいいのじゃ。山のふもとからお城の下まで道の幅くらい草や木を刈っておくんじゃ。そして、その草や木が枯れたころにふもとから火をつけるんじゃ。」
と教えました。
何日か経ったある日の明け方、大桑城に向かってパチパチと音を立てながら城山が真っ赤に燃えていました。斎藤氏側の侍が、餅屋のおばあさんに教えてもらった方法で攻めていたのです。
守りが固かった大桑城もとうとう落ちてしまい、土岐頼純は戦死、頼芸はわずかな家来を連れて北国に逃れていきました。
餅屋のおばあさんの入れ知恵で大桑城が落ちたと知れると、「俺たちの城主を裏切った。」と言って、大桑の人たちは大変怒ったそうです。お年寄りの話によると、それ以来少なくとも太平洋戦争前までは、大桑と青波の地区同士の縁談は全くなかったということです。今、城山の南のふもとにある「千人塚」や「六万墓」は、そのときの戦いの激しさを物語るものだと言い伝えられています。
(参考文献「美濃と飛騨のむかし話」)

 

 

【金の鶏の鳴く話】

むかし、むかし、山縣県大桑村に美濃の国守護職土岐頼芸のお城があった。その城を「大桑城」といった。(岐阜県は昔、美濃の国と飛騨の国に分かれていてそれぞれに現在の知事の役目をする人がいてこれを守護職といった)
天文11年の秋(今から460年ぐらい前)に大桑城へ岐阜城の斎藤道三の軍勢が攻めてきて、激しい戦いを毎日続けていた。土岐の軍勢は数も少なく、裏山から火をつけられて攻められたとき、ついに城が焼け落ちて、土岐は戦いにやぶれてしまった。
土岐のお城の宝物に、「金の鶏の床置き」があった。殿様が日頃から大切にしていた大事な大事な宝物であった。城が燃え始めたとき、土岐の殿様は、燃えるお城の中から、この金の鶏を命からがら持ってきて、山を15間(約30メートル)ほど下ったところに掘ってあった霧井戸に投げ入れて、井戸の底に隠して、北の越前の国(福井県)に落ち延びていった。
それ以来、何百年もたった今もなお、大晦日の晩に台所と座敷の境の敷居を枕にして寝ると、元旦の朝「コケコッコー、コケコッコー、コケコッコー」と、金の鶏が、三回鳴いて年明けを告げてくれる。
この声があまりに美しいので、村人は「金の声」と言って、この鳴き声を聞いた家は、たいへん幸福が訪れる、と言い伝えられている。
また、祖先や親を大事にして、家族みんな仲良くしている家の人だけが聞くことができるとも言い伝えられている。
井戸の奥深くに金の鶏が眠っていて、金のように美しい声でコケコッコーと鳴く、みんなその声を聞いて幸せになろうと、村人たちは山からの鶏の声に耳を澄ましながら、
元日を迎えていた、ということである。

今、この山のことを金鶏山と言って、村人に親しまれ、山の上には古城跡も残され、9合目辺りの霧井戸は常に美しい水をたたえているということです。
(ぎふ、ふるさとの民話より)

 

 

【十王堂のえんま様】

大桑のどの地区にも「十王堂」というほこらが建てられていることに気づきます。
十王堂の中には、えんま大王や死んだ人を冥途で裁くといういう王たちが「十王様」として祀られています。
地域のお年寄りの話によると、昔は夏になると疫病(伝染病)が流行り、
子供たちを中心に多くの人が病気になったり命を落としたりしたそうです。そのため、疫病が起こらないように、病気が早く治るようにとの願いとともに、子供たちが間違ったことをしないで、いい子ですくすく育ってほしいとの願いをこめて「十王堂」が建てられたということです。
「わたしたちが子供の頃には、うそを言ったりいたずらをしたりすると、よく家の人から『地ごくのえんま様に舌をぬかれてしまうぞ!』などとしかられて、時には、自分の家の倉庫やこの十王堂に閉じ込められたものです。」また、「こんなふうにしかられた後は、地ごくやえんま様を想像しておそろしくてたまらなかったし、もう二度といたずらはしないようにしようと思ったものです。」と昔を振り返って話してくださいました。
えんま大王は、インド神話にある神で、人類最初の死者であることから死の神として冥界(あの世)を支配した王とされています。これが仏教に取り入れられて地獄の主となり死んできた人間の生きているときの行いを調べ、悪い行いのあった人間を罰し、よくない行いを防ぐ大王といわれています。
校区を歩いていると、地域の人たちが十王堂でお参りをしていたり、お花が供えられていたりするところを時々見かけます。こうしたことからも、えんま大王や十王様に対する大桑の人たちの信仰心の深さが伝わってきます。
十王堂には、子供の守り仏であるお地蔵様(地蔵菩薩)も祀られており、今でも、市洞、柏野、市場(六反)、斧田、雉洞の各地区では、お盆の頃を中心として「お施餓鬼」(飢えに苦しむ生き物や亡くなった人のために供養をすることで、洗ったお米をお供えし、お坊さんを招いてみんなでお参りすること。)という供養をしています。雉洞においては、今でも、48晩、般若心境を読み読みお参りをしています。昔は、楽しみごとが少なく、人が集い語り合うこうしたお参りを楽しみにしていたそうです。おつとめの後に歓談が進み、夜中の12時や1時になることが多かったそうです。

 

 



 

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